本質|人の本性と占い東京


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日々の生活の中、我々は「本質」とか「本性」を見極めるとか言いますが、決してそれが存在し見るものであるか、見れるものであるかは信じていないというか関心がない。  それは内在するもの、触れることのできない内面的なものとして東洋の思想は捉えます。 しかしながら、その内面的な非存在かも知れないものを言語や概念で意味を持たせ、それを本質とか本性とかへの意識を持たせます、見たことも見ることもできないものをあるかのように 仏教では表層レベルでの起きる意識(本質)は、存在を否定し妄念とされ縁起から生み出された偶発的なものとされます。 井筒俊彦「意識と本質」では鋭い、経験界で出合うあらゆる事物、あらゆる事象について、その「本質」を捉えようとするほとんど本能的とでも言っていいような内的性向が、誰にでもある。
この「本質」喚起的機能にうながされて揺らめく意識を仏教では「心念」といい、もっと否定的な形で「妄念」と呼ぶ。言語のこの側面を指して、大乗仏教の教義を要約した「大乗起信論」は「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみ」と説く。全ての言葉は本来、仮りに立てられた徒なる名前だけであって、それに対応する「実」とか「本質」があるわけではなく、ただ妄念の動きにつれて起こってくるものである、という意味だ。
ここでは言語が妄念の所産という形で提示されているが、むろんこの関係を逆にして、言語の働きで妄念が起こるといっても同じことだ。ともかく、言語と妄念とがぴったり表裏一体をなしたものが、われわれの普通の経験世界であり、そのような世界を無数の「本質」で一杯になった実在界として認知する意識が、われわれの「日常の意識」の次元、つまり表層意識である。
サルトルの名作「嘔吐」の主人公ロカンタンは「私がいた公園のマロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地に突き刺さっていた。それが根というものだということは、私の意識にはまったくなかった。あらゆる言葉は消えうせていた。・・・たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれだった、恐ろしい塊に面と向かって坐っていた・・・」と語り始める。
言葉をロゴスと捉えるキリスト教文明の人であるロカンタンは、このときすでに、日常の明澄な言葉を失い始めている。しかしそれは経験界での言葉を失っているのであって、すべての言葉を失う無分節の「存在=黒々として薄気味悪い塊り」の前に突然立たされる準備ができていたわけではない。だから彼は「ねばねばした、目も鼻もない不気味な存在」を前にして狼狽し、「嘔吐」するしかなかった。 本質|人の本性と占い東京
 

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