愛の清純さ


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「結局、愛の清純さは、その欲望が未来に向けられているか、いないかによって決まるのである。この意味で、死者にたいしていだく愛は、もはやわれわれが未来をにせの永遠不滅にでっち上げない限り、まったく純粋である。なぜなら、死者への愛は、もうあたらしいものはなに一つあたえることができなくなってしまった、完了した生命への愛だからである。われわれはいまはこの世に存在しないひとが存在してくれたらなあと思う。そうすると、そのひとは存在したことになるのだ。」シモーヌ・ヴェイユの言葉ですが凄い洞察です。 彼女に比べ2倍も生きているのにと思う、また比べること自体もしない人もいるでしょうが、この文章に触れること自体まさに崇高です。
「自分を清める一つの方法は神に祈りを捧げることである。しかも、たんに人知れずこっそりと祈るだけでなく、「神は存在しない」と思いながら祈ることである。死者をうやまえ。何事をなすにも、存在していないもののためにすることだ。他人の死によってもたらされる精神的苦痛は真空状態、あるいは均衡の喪失が生み出す苦しみによるのである。ひとが死ぬと、それからというものは努力の目標もなく、従ってむくいもなくなってしまう。この場合、もしも空想がこの真空状態を埋めようとしたら、それこそ堕落の始まりである。「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」(マタイ八の二二、ルカ九の六○)というが、自分の死とて同じことではないか。目標もむくいも未来にある。だから未来を取り去ってしまうがよい。そうすれば真空状態が生じ、均衡は失われる。「哲学することは死を学ぶこと」となるのもそのためである。またそれゆえに「祈ることは死ぬことに似ている」のである。」 余りに神を愛し、近付きたい反面真空になりきれない自分、いろいろと考えさせられます。
時間とは人間にとってもっとも深刻かつ悲劇的な気がかりである。唯一の悲劇的な気がかりといってもよい。想像しうる悲劇のすべては、時間の経過という唯一無二の悲劇へと逢着する。時間はまたあらゆる隷属性の源泉である。
パスカルが深く感じとっていたように、時間は存在の虚無という感覚をもたらす源泉である。時間が逃れさせるものがゆえに、人間はこれほどまでに思索を恐れるのである。「気晴らし」は時間の経過を忘れさせることをめざす。事象を後世に残すことで自己の永遠化をはかるが、残ることは事象にすぎない。
シモーヌ・ヴェイユ 冨原眞弓訳
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